ドクター青木のぞうさん日記

makenaizone主宰の青木正美が、自分の生活の中でできるボランティアとは何かを考え、実行してみよう、そんな四方山話を綴ります。
Dr Aoki's Prescription...

2014.7.1

2014年7月1日 火曜日
8:00   24℃
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解釈改憲それは許さぬ斧冷やせ

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日本の状況を全く把握していない「思い込み」の、たった一人の為政者のお陰で、眠れない夜が続く。
それにしても、ワールドカップ決勝ラウンド、好試合が続く。チリもウルグアイもメキシコもギリシャもナイジェリアもアルジェリアもスイスも、余りにもいい試合で去るのが惜しい。
余りにも残念な時空に自分が居るのだが、それでもクーラーの効いている部屋で試合を観ていられるこのささやかな瞬間に感謝することを忘れてはいけない、と、改めて思う晩だ。


2014.4.29

2014年4月29日 火曜日

ゆで卵時間まちがふ昭和の日

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2014.4.28

2014年4月28日 月曜日
昨晩のNHKスペシャルの「女性たちの貧困」。
あるネットカフェでは80%が女性だという。10年前のネットカフェに居た男たちはいったい何処へ行ってしまったのだろう。
女性の貧困は、主に男性との賃金格差の問題が大きい。
しかし、本当にそれだけなのだろうか。いざとなれば、男は福島に行けば何とかなる・・・。そんな事ではあるまいな。次なる人員は女子までも・・・、まさかまさか、そんなことではあるまいな。
そら耳や静心なく亀ぞ鳴く
ふって湧く空耳アワー夏隣

 

 


2014.4.27

2014年4月27日 日曜日

漆黒の闇に忽然花あるる

 


2014.4.26

2014年4月26日 土曜日

1986年4月26日午前1時23分にV・I レーニン共産主義記念チェルノブイリ原子力発電所の4号機で爆発事故が起こった。

発電所の近郊にあった、原子力従事者の街プリチャチは、人口5万人、平均年齢25歳、年間出産数1000人の若い街だった。

今ではゾーンと呼ばれる中にあるその街は、事故直後から高い線量に覆われたが、事故の知らせは全くなく、発生から36時間後に突然バス1200台と1500座席ある列車3編成が用意され、たった3時間で強制退去が執行された。

多くはそのままキエフなどの大都市に避難させられ、事故後2ヶ月で、事故前と同規模のアパートメント、事故前と同等等収入の仕事、5万人全員の詳細なる検診が行われ、現在も最低年に一回は検診が続けられている。

昨年、キエフに避難してこられたゼムキャリというNPOのメンバーから話を伺ったが、事故の後のソビエト当局の対応には、正直かなり驚いた。

日本は何をやっているんだろうか……春のキエフでとてつもない焦燥感に見舞われたものだった。

そんな避難など、双葉町にはなかった。検診も、住まいも、もちろん仕事もだ。

いま福島では、双葉八町村のみならず、飯館村でも帰村に向けて途方も無い除染計画が、既に2年近く前から進行している。

まず、第一点として、何故に空間線量だけで判断をしているのだろうか。

しかも単にγ線を測っているに過ぎない。

本来ならば全核種を測るべきであろうし、少なくとも300mメッシュぐらいの詳細な土壌調査をして、γ線のみならずβ線もしっかりと測った上で、村に帰るか否かを首長ではなくて個人に判断する自由があってしかるべきではないだろうか。

いや、本来は、全ての人々に避難の途を強制するべきだっただろう。帰りたいと思う人だけにスペシャルメニューを考えれば良かったのではなかったか。

先行して帰村宣言をした川内村にも、今既に無理が生じてきてやしないだろうか。

また、数年後には広野町に中高一貫校の設立も進んでいる。中高生をわざわざ広野町に集めてどうするのだろうか。

わたしたちの国は、その第一歩から、何かが決定的に間違ってやしないだろうか。

「いつか帰れる」という希望は、住民票を残すことで法的にも精神的にも、ある程度満たされる話である。

「しかし今は帰らない」という選択を、もっと多くの住民が個人の意志で行えるような、そんな言論環境も含めたバックアップを誰かが用意するべきではないのか。

原子力災害というのは、今までこの国が体験したことがない災害なのだ。

今までの災害復興の論議は、何一つここでは通用しない。否、通用させる必要も無い。

全く無の状態から、いま一度、私たちの国は原子力災害に対峙してゆく必要がある。

子ども・被災者支援法はそういう意味で、今の状況を救えるような立て付けにはなっていない。

飯館のある被災者の50代の夫婦を、南相馬の仮設住宅に訪ねたとき、その大きな仮設住宅の活気のなさに、わたしは自分の目を耳を疑った。

阪神淡路大震災以来、色々な仮設住宅を見てきたが、ボランティアなどの中間支援が一切入っていない仮設に出会ったことがなかった。

これ一つをとってみても、どれほどにこの災害の特殊性が際立っているのかが分かるエピソードであろう。

今からでも決して遅くないと信じつつ、「帰らない」という選択をもっと容易にするための、二重住民票や小規模集団移住、セカンドタウン制度など、土地に縛り付ける今までの法的観念を取っ払って、人の移動を容易くするメニューを広げて支援をしてゆけないだろうか。

残念だが、までいの村では元の暮らしが成り立たなくなってしまったのだ。正当にそう判断することが、住民の心の安寧に最も寄与するものなのだということを、わたしたちはもっと心に刻んでゆくべきだと思う、チェルノブイリ事故から28年目の未明である。

 

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