まけないぞうの現場から。

「まけないぞう」の育ての親であり、日本のボランティアの父である村井雅清さんが、日々感じたつぶやき特集。
被災地NGO恊働センターから 被災地の今を伝えます。


過去の過ちを人間はくりかえすのでしょうね。少なくとも、私たち一人ひとりが日々の暮らしの中でできることはやりましょう。

2012年4月23日 月曜日

みなさん、”あくろっしゅとわー”村井です。

我謝京子さん、韓国での映画祭お疲れさまでした。    #韓国の映画祭の速報はこちらをご覧ください。
東日本大震災後、世界の150以上の国から支援を受けたようです。
その中には、途上国と言われる25の国からも支援がありました。
そういう意味では、「3・11 ここに生きる」は世界中で上映されなければならないのでしょうね!
この映画を観ていただくことが、日本からのお礼の意味での厳しいメッセージであり、でもこうして厳しい中でもみなさまのおかげで生きていますよ!というメッセージであり、映画を媒介にして、お互いが地球市民として、この空の下で生きていることを共有することができるからです。

家藤さん、新しい事務所は慣れましたでしょうか?

makenaizoneの皆さん、いろいろとフォローありがとうございます。
極端に販売がストップしましたので少し慌てましたが、きっと「まけないゾーン」のみなさまのご協力で持ち直すでしょう!!

「心の復興」はまだまだです。
足湯ボランティアが聴いてこられた被災者の生の声と向き合いますと、「復興、復興」というかけ声とは正反対に、精神的にはまだまだ日々のリズムに馴染んでいくことが叶わぬ方が少なくありません。
被災者によっては10年経っても、20年経っても「心の復興」が思うように行かない被災者がおられると思います。だからこそ、私たちは、可能な限り被災者のペースにあわせて、各々の寄り添いができればと思います。

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2004年の新潟県中越地震のあと、小千谷の塩谷集落のSさんと言う方が、その後の2007年に起きた新潟県中越沖地震の被災者に「苦しいのはわかります。でも焦らないで下さい。」という手紙を出されました。当事者が、同じ当事者にこうした内容の手紙を送られることは珍しいことでした。
被災者にとっては予期せぬ大災害に遭遇し、家族・住まい・しごと・コミュニティなどと無くされたとすると。、本来ならばそう簡単には立ち直れません。じっくり時間をかけて、またその過程では、その後の将来設計として「家族・住まい・仕事・地域のこと」などをほんとにじっくり考えて、結論を出したいところでしょう。しかし、現実は待ってくれないのです。そうすると、ご自身の意に添わない再建というシナリオを受け入れざるをえなくなります。本来、このような進み方は理想ではないはずです。特に福島の被災者のことを想像すると、簡単にわかることです。原発の事故さえなければ、苦しまなくても済むわけです。しかも、一定量の放射線を被曝しているとすれば、何年か先に人体への影響がでるかも知れません。でないかもしれません。しかし、可能性がある以上は東京電力も、国も、全面的に当事者にしかるべき救済をし続けなければなりません。それが何年かかろうとも。
もう過去に経験した失敗を繰り返してはいけません。足尾鉱毒事件、水俣病などの公害、そして世界中のどこかで日々起きている紛争、何よりも日本だけが経験した原爆・・・・・。

でも、人間はくりかえすのでしょうね。少なくとも、私たち一人ひとりが日々の暮らしの中でできることはやりましょう。出来ない人は、無理をしないで、遠慮せずにSOSを発信しましょう。そのSOSは、きっとすべての人にとって大切なメッセージなのです。ボランティアはその担い手になる存在でしょう。
何故ならば、「ボランティアはジッと傍にいるだけでいい!」とよく言われますから。
結局、「ボランティア社会」を成熟させることが回り道のようでも、近道かも知れません。

「まけないぞう」がそんなボランティア社会のシンボルになればいいですね!!
だって、誰にでもやさしい「まけないぞう!!」だもん。

大変長くなって申し訳ありません。最後にお願いです。
大変恐縮ですが、まけないぞうづくりのためのタオルが不足気味になってきました。
またご協力をお願い致します。
*タオルを送る前に、必ず被災地NGO恊働センター(078−574−0701)に連絡を下さい。


増島智子さんのメッセージ 2012年4月19日 いまからが正念場で、「こころの復興」です。

2012年4月20日 金曜日

3.11 震災直後の3月26日からずっと「まけないぞう」を通して被災地の方々に寄り添ってきた 増島智子さんから、昨日メッセージをいただきました。

4月11日に神戸へ戻ったが、週明け26日〜遠野入りして2週間ほど滞在して戻ってきますとのことです。

みなさま、身のまわりのお友達へ どうぞ伝えていただければありがたいです。
「心の復興」まだまだこれから。
ずっと現地で寄り添ってこられた増島さんのことばがずっしりと胸に響きます。

makenaizoneも、これからもたゆまず 「まけないぞう」の応援を続けていきましょう!
作り手さんへ「忘れていませんよ、お仕事づくり 生き甲斐づくりのために まけないぞうをもっともっと作ってくださいね」と伝え続けていきましょう。
風化させない 被災地への思い。
どこにいてもできる「まけないぞう」の応援。
あらためて、これからもよろしくお願いいたします。

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makenaizoneのみなさん、いつも多大なるご支援ありがとうございます。岩手県遠野市に拠点を置いてから早1年が経ちました。この度遠野での1年間の常駐期間を終えて、4月11日に神戸に戻って参りました。遠野在任中は、国内に限らず世界からも本当に多くのご支援を頂き深く感謝いたします。この場を借りて心より感謝いたします。

津波の直後、3月26日にあくろしゅとわー村井と大槌町の被災地に入りました。

その被災地の光景を見て、まるで原爆の落ちた後のように暮らしの足跡といえる「ガレキ」の山が連なり、言葉を失ったのが、つい最近のような、ずいぶん前のことだったような気がします。

被災地には、消防車、救急車、警察、自衛隊などの緊急車両が道路を数十台の車列をくんで走り、あらゆるところで食料や水、物資などが不足していました。被災者は、着の身着のまま逃げてきて、家族や親類・知人を亡くし、流されたまま見つからないなど、口をついて出る言葉は悲惨なことばかりでした。
そんな中で「まけないぞう」を避難所でやることは、これまでの被災地でも初めてでした。いままでは、少し落ち着いた仮設などでやっていたので、まだ緊急救援期の殺伐とした避難所でやることに躊躇もありました。ボランティア活動もハードの「ガレキ」撤去がイメージに強いようで、ボランティアの人にも「なんでいまこんなことをしないといけないのですか」「もっと他にやることはあるのでは」という批判も受けました。
それでも、「まけないぞう」を避難所でやり始めたら、被災者の人たちが「津波の後からずっと嫌なことばかり考えていたけど、久しぶりに津波のことが忘れられた」「久しぶりに頭を動かしたからよう眠れるわ〜」などのメッセージをいただきました。「まけないぞう」を作っていると、鼻が曲がったり、目がびっこだっこになったりしていると、「性格が曲がっているからだよ」とか、「作った人に顔が似るんだよ」とか自然に笑みがこぼれます。
緊急救援期からでもやはりソフト活動は必要なのです。やったことに間違いではありませんでした。それからずっと避難所を回り、仮設住宅へや在宅被災者のところへと「まけないぞうの輪」は広がり続けています。「まけないぞう」はいつも被災者のそばに寄り添い笑顔を届けてくれます。私が辛いときも「まけないぞう」を通して被災者の人からパワーや笑顔をもらいながら、慣れない土地でもやってくることができました。

いまでは、60人近い人たちが「まけないぞう」を作ってくれています。最近では、この1年間必死で生きてきて、やっと少しずつですが、心と身体に余裕がでてきて、「まけないぞう」をやりたいという声が聞こえています。
レポートでも書かせて頂きましたが、いまからが正念場で、「こころの復興」です。なかなか被災地の情報が手に入れにくくなり、被災者も忘れられがちになります。私たちは「まけないぞう」を通して、KOBEから被災地のことを発信し続けていきます。これからは、月に一度くらい岩手県を訪れながら、県外避難者の方にも「まけないぞう」を広げていきたいと思っています。
ぜひ、今後とも「まけないぞう」をよろしくお願いします。最近では、やっと生産が間に合ってきましたので、ご注文を頂いてからお待たせすることなくお届けできると思いますので、友人・知人の方に広めて頂ければ幸いです。本当にこの1年間ありがとうございました。

お礼とご報告まで。
増島智子


2011年5月末より岩手県遠野に常駐しておられた増島智子さんが 神戸に戻りました

2012年4月17日 火曜日

岩手県遠野での1年間にわたる常駐期間を終えて 4月11日に神戸に戻られた被災地NGO恊働センタースタッフの増島智子さんから『まけないぞう』がつなぐ遠野ものがたり

被災地NGO恊働センターの現地報告サイト 「東日本大震災 レポートNo.164」どうぞご覧ください。

【東日本大震災】レポートNo.164

岩手の作り手さんは約60名。これからも「まけないぞう」を作ってくださいます。引き続き応援していきましょう!!

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makenaizoneから 増島さんへ。
東日本大震災直後から1年間にわたり “まけないぞう”作りを通じて 被災された方々にずっと優しく寄り添っていらした増島さん、本当にお疲れさまでした! 東京にいる私たちも引き続き 『まけないぞうプロジェクト』を末永く応援していきます!

増島さん、まけないぞうの作り手さんの皆様に寄り添って来られた この1年間 何年間も 何十年間もの人生に匹敵するような働きをされたのですね きっと 後ろ髪を引かれる思いで、神戸へ引き上げて行かれるのかなと想像しています。

増島さんのレポートでいつも作り手さんたちのご様子を知らせていただいて、遠 くから応援しているわたしたちもほんとうに有難く、何と御礼を申してよいのか言葉が見つかりません。
今後は違ったかたちでの支援に働かれるのだと思いま す。
これからも、どうぞよろしくお願いいたします。
わたしたちも被災地のこと、避難された方たちのことをずっと忘れず応援を続けていきます。


遠野市の婦人会グループ「ふきのとう」さんが送別会をしてくださいました。これからまた、新しい出発です。

2012年4月11日 水曜日

先月3月29日、岩手県遠野に行って参りました。
今回は東日本大震災後まけないぞう事業が始まって以来お世話になっている、遠野市の婦人会グループ「ふきのとう」さんに呼ばれてのことです。
あらためて、まけないそう現地担当者の増島智子よりご挨拶があると思いますが、実はこの4月中旬で遠野の拠点を引き上げ、神戸で活動を継続します。
それで、「ふきのとう」さんが送別会をして下さったのです。
「ふきのとう」さんも、まけないぞうのおかげで沿岸地域の被災者支援に加わることができて、感謝をして下さいました。
みなさんが一年間を振り返って、いろいろのお話をされているのを傍で聞いていて、ほんとにこの人たちのおかげで「よくやつてきたなぁ」と胸が熱くなりました。
増島は、「ふきのとう」さんに可愛がって貰いながらも、育てて貰いました。こうして岩手県の「まけないぞう事業」を1年間展開して参りました。

今後は、月2回くらいのペースで神戸から作り手さんのところに行き、フォローをしていきますので、みなさん引き続きまけないぞうを可愛いがって下さい。
私どものスタッフの増島に送るのも筋違いですが、「増島智子よ、”あくろっしゅとわー”!」と言わせて頂きます。
また、まけないゾーンのみなさも増島を支えて続けて下さいましてありがとうございました。
これからも引き続きよろしくお願い致します。

 

編集注: 増島智子さんの現地レポート 最新号(3月16日)

【東日本大震災】レポートNo.163 「まけないぞう」がつなぐ遠野ものがたり 3月16日(金) こちらをご覧ください。

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PS:先日東京新聞の「こちら特報部」という特集面に「まけないぞう」が紹介されました。
# キャッシュ フォー ワークとしての「まけないぞう」に掲載しています。こちらをご覧下さい。

(ほんの少しだけですが)見出しに、「まけないぞう 17年間も収入に」とあったのでびっくりしました。
この日の特集は、被災地のしごとづくりがテーマだったのでこのような見出しになったようです。
また、まけないぞうに関係がなく、全く別の記事で2回ほど写真にまけないぞうが載っていたりで、これも驚きました。

まけないぞうがあちらこちらに出没します。面白い現象です。
ついでに、アメリカの方でまけないぞうを買って下さった方が、ルイビトンのバッグにあのまけないぞうをくくりつけていたので、これまた驚きでした。
まけないぞうも「何でもありや!」になってきたようです。

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被災地NGO恊働センター 代表
CODE海外災害援助市民センター 事務局長・理事
村井雅清(むらい・まさきよ)


4月7日 タオル仕分け隊の家藤さんと、17年前にも・・・すごいご縁があったのです。

2012年4月7日 土曜日

昨日の夜、私たちの事務所の会議室(元居酒屋)で、恒例の寺子屋勉強会があり、家藤さんが参加してくれました。

勉強会が終わったあとも、若い人と話が盛り上がり、結局終電ギリギリで走って帰られました。
話の中で、凄いご縁があったことを発見しました。私たちのNGOは、1995年1月19日(震災2日後)に立ち上がった「阪神大震災地元NGO救援連絡会議」の分科会として発足したのですが、なんと当時家藤さんも被災者でありながらも、ボランティアに奔走していたようで「星組」というグループ名で、おなじく先の阪神大震災地元NGO救援連絡会議に出入りしていたようです。当時その頃私は神戸市兵庫区内の「ちびくろ保育園」を拠点にできたボランティアグループ(ちびくろ救援ぐるーぷ)に所属していて、同じように私も地元NGOに出入りしていたのです。ということは、なんと17年前に同じ会場で、同じ空気を感じ合っていたということです。これにはびっくりです。
余談ですが、家藤さんは少年野球の指導者もしておられますが、私も阪神淡路大震災直前まで12年間やっていました。

実は阪神淡路大震災後、私が所属した「ちびくろ救援ぐるーぷ」というのは、その後名前が変わり、「ぐるーぷ”えん”」としました。そして元居酒屋だった現事務所を借りた後、ボランティア居酒屋を1年半営業していました。(当たり前ですが、きちんと営業届け、保健所の許可をとって)その時の居酒屋の名前は「酒えん」でした。
ボランティアの中に、プロの板前さんがいたのです。その彼を中心に、私たちは活動があるので交代で皿洗いをしたり、もともと料理の得意な増島は、さらにその板前から和食料理の神髄を伝授して貰ったりしていました。結構評判になって、お客さんは「ここはボランティアでやっているのに、何でこんな旨いんや!」と言う人が多かったのです。「ボランティア居酒屋とは言っていますが、プロの板前さんがやっているんです。」というのに、同じ質問をされるかたがいました。その彼が実家の親父さんが倒れやむ得ず実家に帰ったので営業は中止しましたが、ここで宴会をするときは、時々その時に伝授して頂いた「イワシ料理」を出します。その場にいた人が、「ここの料理は素人なのに、プロのイワシ専門店より旨いなぁ!」とイワシ好きの方が言われたのを聞いて、「あっそうか!彼の腕前は相当なものだったんだ。彼に教わった通りにやっていて、こういう評価を受けると言うことは、一般の店と違うんだ!」ということに気づきました。彼にそのことを電話で伝えると、「それはたぶん、イワシごときで、あそこまで手間暇かけませんから・・・・」という答えでした。
「なるほど、私たちは彼から最高の技術を伝授して貰っていたのか!」ということに気づきました。

PS:何故「ぐるーぷ”えん”」とひらがなにしたかといいますと、円・縁・援・宴・艶などなどありますが、事務局長だった夜間高校生が「うちら漢字やったら読まれへんから、ひらがなの”えん”で行こう」となり、この名前になりました。

まぁ、ほんとに「縁」というのは不思議なものですネ!
そういう意味では、田中編集長ともあの時に、同じ空の下で各々の涙を流していたんですよね・・・・。
そして17年目の「1・17」に、カトリックの田中編集長が観音様の前でお祈りを捧げられました。
今年の「1・17」は、すごい意義のある1日を過ごさせて頂きました。
そして「3・11」、遠く離れたオーストリアの地から田中編集長は、思いを馳せられました。
やはり、同じ空の下で・・・・・。

原発のこと、まけないぞうの作り手さんを通してのお一人おひとりの生き様、そして洪水のごとく流れたいろいろな人たちのコメントや評論などなど・・・・・。そんな中で、やはり田中編集長が言われたように「ぶれずに」自分と向き合うことが大事かなぁと痛感します。先日亡くなられた思想家「吉本隆明」さんは、こういう厳しいご時世では、「小さく小さく考えよう」と言っておられました。

 

私どもの寺子屋は、同じ思いで開催しています。30人ほどで満杯になる小さな会ですが、やはり確実に、手応えのある学びが必要かと思います。
今晩も、『福島の再生のために”フクシマ”と向き合おう!』というテーマでの寺子屋勉強会です。

東日本大震災のことを、「忘れない!」ということはもちろん大切なことです。
もう一つ、今かなり注目されている『「フクシマ」論 〜原子力ムラは、何故生まれたのか』(開沼博著、青土社、2011/6/30第一刷発行)を読んで「ハッ!」としました。この第2次世界大戦後、70年ほどの間で「変わらなかった」ことは何か?ということです。結果的に、私たちは原発を容認してきました。何故、止められなかったのか?何故、いまも世界の何処かで紛争が亡くならないのか?何故、「ミナマタ」は繰り返すのか?などなどと、「変わらなかった」こと。ここで踏ん張って、一人ひとりがそのことと向き合うことが大事だと思いました。

スミマセン、固苦しい話になって。

まけないぞうの作り手さんは、「まけないぞうと共に!」ですね。まけないゾーンの私たちも、各々の「まけないぞうと共に!」ですね。増島が神戸に戻ってきて、新たなスタートです。
みなさん、これまでと変わりなくまけないぞうをご愛顧下さいませ!!

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