ウクライナの旅の日記 5月13日(月)
チェルノブイリ原発から3キロのところに、プリピァチという町があった。
原発事故直後に、この町からキエフに避難した人たちで作っている「ゼムリャキ」というNPOの方々のお話を伺った。
恐ろしく良くできる日本人の通訳も入れてだが、私たち一行16人と「ゼムリャキ」の方々7~8人との会談は3時間を超えたものとなった。
わたしが一番お聞きしたかったのは、医療のことについてだ。特に直後の医療体制がどうだったのかをどうしてもお聞きしたかった。
午後から行った「チェルノブイリ博物館」でプリピァチの町のデータを知り、わたしは立ち尽くしたのだった。
人口が50000人、うち子どもが17000人。年間1000人の新生児が誕生していた。つまり月に80以上のお産があった町だった。プリピァチ市の平均年齢は26歳。
そうしてプリピァチ市の被災前のビデオを見ると、いわゆる高級なホワイトカラーの家庭の人々の暮らしが映っていた。
1986年あたりでは、世界でも裕福な暮らしぶりだったにちがいない。恐らく東ヨーロッパではピカイチの生活水準だったことだろう。
プリピァチ市は、チェルノブイリ原発で働く人々が居を構えていた、若さと希望に満ち溢れた新興都市だった。
それが1986年の4月26日の事故で一転する。翌27日の日中に、たった1時間で荷物をまとめるようにとの指示があって、用意された1200台のバスと、1500座席の列車3台に積み込まれて避難の旅立ちをしたのだった。
一行のバスの列は3kmにも及んだという。3日で帰れるからと言われてプリピァチの人々は町をあとにした。
そうしてプリピャチからキエフに避難した人々はNPOを作り、互いに生活を支え合うようになる。やがて日本やヨーロッパなどの支援団体とのパイプを持つようになった。今でも日本の支援団体と深く結びついている。
あの事故から四半世紀が過ぎた頃に、福島原発の事故が起こった。時を経て、原発事故が日本で起こったのだ。だからこそ、私たちの立ち入ったロングインタビューにも快く丁寧に応じてくださったのだろう。
「プリピャチからウクライナに避難した者は赤ちゃんから大人まで全て、被災後2ヶ月間のうちに健康調査を終えました。幾つかの血液検査などですが、今でも年に一回は血液検査などの検診を受けています」
「原発に因る健康被害は、子や孫といった後の世代に引き継がれます。子ども達はみな免疫能が弱いのです。事故から27年経って、そのことに私たちは直面しています。日本の方々へぜひとも伝えたい事は、次世代の健康管理をしっかりと行うことが必要です。これはチェルノブイリ法に盛り込めなかったことなのですが……」
「私たちは日本のみなさまに大変お世話になってきました。今度はお返しをする番です。ウクライナ政府が日本を助けると打ち出したなら、私たちは喜んで日本の子どもたちを受け入れます。どうぞいらして下さい」
私たち一行は、何人かの方々とハグをして別れた。暖かく、励ましてくれるようなハグだった。