小泉がイラク戦争に兵を出した時、「なるほど、どんなに国論を二分する案件でも、選択はどちらか一方に決まるものなのだ。それが歴史なのだな」と、強烈に感じたのだった。
この9月に入った頃から、なぜかしきりに当時のことが頭をよぎるようになった。この既視感の正体は何なのだろうと思っていたのだが、東京五輪が決まって分かったのだった。
冷静にみれば、この国の人々のメディアリテラシーの欠如が原因なのだが、そのリテラシーの差に因って人々は、あっという間に真っ二つに引き裂かれていった。
わたしの目の前でだ。五輪という感動の席に座ったものと、怒りと無力感の席に座った者は見事に引き裂かれていった。その人々は、つい昨日まで同じ映画館で同じように涙を流していたのではなかったか……。しかし、これからは、互いに監視し敵対しながら、狂乱のカーニバルに向かってゆくことになるのだろう。
わたしが感じた「歴史の既視感」のようなものは、1930年代のナチスドイツや日本に起こったような大政翼賛という現象だったのかもしれない。それは、つい3日前まで机上の概念だったのだが、本当にみるみる目の前にはっきりと現れて、日に日に大きく強固になっていってしまった。
多分わたしの動揺が大きいのは、余りにも突然に、そして簡単に引き裂かれてしまったからなのだ。
では、引き裂かれてしまった人々は元に戻らないのだろうか。否、大きなショックに見舞われれば、等しく元にもどるのだろう。
だからその前に、20世紀までとは違う解決策を見つけなくては、と。
あるはずだと思うのだ、このインターネットの空間に。