閣議決定とは、業務上行われている内閣の意思決定の一形式。憲法または法令に定められた法律案・法令・予算など内閣の職務権限として明示された事項および他の重要な事項について行われる。(大辞林)
武器は輸出していい、原発は絶対にやめないしもんじゅも動かす、地球の裏側でもアメリカの戦争に協力する・・・閣議で決まれば、何でも思い通りになると思っているのか。
マスコミは何をやっているのだろうか。この国の大切なことは全部、閣議で決めれば良いと思っているのだろうか。そんなことを許すのだろうか。第一、野党は何をやっているのだろう。あと3年間、国政選挙がないから、じつはほっこりしているのではないか。
この国にはこの国の未来を考えている人は、どれほどいるのだろうか。
災害がこうして見えるところで起こって、殊に東京はあの311の揺れを自らも感じたはずだ。自分の心と身体で大震災を実感したではなかったか。
そうしてあの時、福島で何が起こったのか、私たちは多いに目撃したはずだ。
なのに、どうしてこんなに直ぐに、忘れてしまうのだろうか。
向き合いたくないものに対して目を背ける・・・この国の最も悪い所だ。
その代わりに、どうでも良い小さな問題に対して、大騒ぎをする。
しかし、どんなに閣議で決めようがどうにも成らないことが、この国には存在する事を忘れてもらっては困る。
この国は、権力者の思うようには決してなりはしない。私たちはこれから、この国に生まれた者としての宿命と直面することになるのだ。そのことを忘れているようでは何の意味もない。それを砂上の楼閣というのだ。
今わたしたちは、残念ながら千年に一度の大震災時代を生きている。長いこの国の歴史の中でも、非常に稀な大震災時代に生きる事を余儀なくされている。
閣議とやらで、この事実も毎回話し合いがなされているのなら、わたしは文句も言うまい。しかし、微塵もその片鱗がないからこそ、わたしはこの閣議決定を許すことができないのだ。
原発をベースロード電源にするのであれば、それにどんな公算があるのだろうか。百害あって一利無し。何も根拠もないカネに目が眩んだ計画を許す訳にはいかない。
まずわたしたちの国は、浜岡原発と伊方原発の燃料棒をしっかりドライ保存にしなくてはならない。この2つの原発敷地内に早急に免震のドライエリアを確保してを着工しなくては間に合わないだろう。
速やかにこの6つの原子炉と燃料プールからリスクを取り去らなければ、この国は人が住む場所が無くなって立ち行かなくなってしまうからだ。南海トラフに地震が起これば、当然ながら、今抱えている東北の復興計画など、南海トラフ地震が起こった瞬間に、木っ端みじんに吹っ飛んでしまう。
そもそも集団的自衛権の話題を振りかざしても、これだけ国民の間に「凪」状態が続いているのは、実際に尖閣諸島や竹島問題の現場で隣国の「主張」が身近に起こっているからだが、それこそがこの問題の「種」である。
では、何故この領土問題の「種」がムクムク大きくなってしまったのか。それは日本が何時何時、大地震で大混乱をして国が存続出来るか否か分からない状況が近くなってきているからだ。だからその前に、「ここは我が国のものだ」と隣国が主張を強めてきているからではないのか。
つまり、アジアを始めとしてヨーロッパもアメリカも、日本が近い将来に大災害時代を迎えることは織り込み済みなのである。
例えば、この問題を一番初めにわたしが目にしたのは1996年のフランスの新聞でだった。そこには、「日本はそう遠くない将来、近代国家としての終焉を迎えるだろう」と書かれてあった。阪神・淡路大震災の翌年の話である。
日本が大震災時代を迎えているのは、その長い歴史から考えてみれば至極当たり前だと、世界中がそう認識をしている。だから日本がまだ健全なうちに、領土問題が存在するという事実を国際的にアピールしているのが、尖閣であり竹島なのである。
それにしても、首相の周囲には、恐らくこの国の最悪のシナリオを描くことができる人物が居ないのだろう。あまりにも鈍感で呑気すぎやしないか。
別に脅かすつもりも無いが、南海トラフ地震域にそこかしこで揺れが起こるようになって3ヶ月ほどが経つ。三陸沖〜房総沖でも地震が目立つ。殊に福島・茨城沖ではM5クラスの群発地震が起こっている。つい今しがたも、M5.1の地震が福島沖で起こったばかりだ。
超高齢化国家、超少子国家、人類史上最悪のカタストロフィーへの対処、頼りの綱のアメリカの弱体化、にもかかわらず集団的自衛権を進めようとしている国に対して、もっとその根本を考え、対外的なことよりも国内的な問題点に目を向けるように呼びかけることはできないのだろうか。
この政権のやろうとしている事が、危険極まりないしこれまでの国の形が変わってしまうから「反対」であるという、そういう外見だけの政権への反対論はこの際、この国の権力者を始めとして有権者にも、もうあまり響かないのではないか。
例えば、集団的自衛権を行使することで、来るべきイラン戦争に日本が派兵をすることになるとしよう。戦況が佳境にさしかかった頃に、南海トラフ地震なり首都直下地震が起これば、派遣した日本軍を即日撤退せざるをえなくなる。
何しろどちらが起きても、数十万人の死亡者が出て、そのうちの半数ぐらいが生死の不明が分からない状況になり、その数倍の負傷者が出る。原発が事故を起こせば、3000万人ほどの人々は即刻に疎開を余儀なくされるのだ。
つまり、わたしたち日本人はそういう時代に生きている。しかも高齢化は毎年毎年、進んでゆくのだ。
だからこそ今後、20年間いや15年間に起こる最悪のシナリオを頭に浮かべて、それを回避するような有効な政策を打ってゆくためには、何をしなければならないか、何をしてはならないかという、いわば「ダメージコントロール」論を政権中枢のみならず、わたしたち国民の方ももっともっと真剣に考えるべきではないのか。
事はそこまで切迫をしている。支持は全く高くないのに敵が居ないのでのさばっている政権と、強靭な政権に対してNOだけ言っている民や、生活に追われて権力者の動きなどなにも留意できなくなっている民と、そんな声を全く反映しないマスコミと、突き詰めればカネのことしか考えていない財界と、プライドだけは高いが責任を全く負わない官界と、火と水と油の国民が織りなす2014年の春なのだが、しかし私たちは唯一共通点がある。みな同じ日本列島に暮らしていることを思い出して欲しいのだ。だからこそ今私たちが置かれている状況を、もっと真剣にもっと冷静に考える必要があるのではないか。
このまま使用済み燃料をウエットのまま保管しながら大災害時代を迎えるのは、まずもって不可能である。
今日明日にでも茨城県〜房総沖に大震災が起これば、東海第二原発の2195本の使用済み燃料棒の保管が難しくなる。同様に東海地震が来れば、浜岡原発の6625本の使用済み燃料棒は忽ちのうちに恐らく燃料棒自体が剥き出しになって、想像もつかない事態になることだろう。
この国から民主主義が壊滅して、そろそろ一年半が経とうとしている。
しかし、この国のリスクは増大することはあっても、減少することはない。どんなに国民という名の忘れっぽい人々が忘れてしまっていても、自然の営みは決して忘れずに動いている。
それを利害が反するバラバラな「民」「政」「官」「財」「メディア」に、どう知らせてどう纏めてゆけるのか、もう少し真剣に考えようではないか。