そのゾウの存在を始めて知ったのは、もう何年も前のことです。
何年か前に初めて手にしたと時も、「被災者支援なんだな」と思っただけでした。その黄色い象さんは、たぶん家のあの引き出しに眠っているはず、、。
そうしてわたしは、まけないぞうのことなどすっかり忘れて、311を迎えたのでした。
311以降のわたしは、311以前のわたしと、明らかに違っていました。わたしは311以来、何かに急かされるような毎日を送っていました。
実は震災の直後に被災地に入ろうとしたのですが、ガソリンが足りず東北に入れずに帰京せざるをえませんでした。
刻々と入る情報を見ながら、被災地に何ができるのか考える日々が続きました。
そんな折、4月の初旬に関西学院大学の研究会で久しぶりに村井さんに会いました。研究会では、研究者たちの報告や考察で時間の経つのも忘れるほどでした。
東京に帰る新幹線の中でわたしは、自分に何ができるのか何をしなければならないか、自問自答をしながら考え込んでいました。
311以来、常に被災地のことを考え続けている自分がいました。「もう自分たちは震災前には戻れない」そう思いはじめた頃、神戸の村井さんからボロっちい段ボール箱が送られてきました。箱を開けてみると、中から20頭のまけないぞうが出てきました。
ご紹介が遅れました。村井さんとは、村井雅清さんのことです。わたしは村井さんを勝手に「日本のボランティアの父」と呼んでいます。
本当は父かどうかは分かりません。母でないことだけは確かですが、この際、みなさんにしっかりご紹介するために村井さんの本を読み直しました。すると読めば読むほど、やはり「ボランティアの父」でいいみたいだと分かりました。
村井さんとわたしは、兵庫県の西宮にある関西学院大学災害復興制度研究所、という長い名前の研究所の客員研究員として、5~6年ほど前に知り合いになりました。村井さんは今では世界中の被災地に飛んでゆく、ボランティア中のボランティアなのです。
沢山の受賞歴もあり、その活躍ぶりはとみに有名です。その村井さんが、長いこと続けている活動が「まけないぞう」なのでした。
4月の中旬に神戸から送られてきたまけないぞうは、あっと言う間に、うちの患者さんたちに強烈なインパクトを残して、段ボールから飛び立ってゆきました。すぐに神戸に追加をお願いするも、なかなか制作が間に合わず送ってもらえない期間が長く続きました。
まけないぞうは、被災者が作って初めて、まけないぞうなのです。
この時期、被災された方々はまだまだ色々な意味で、困窮されていました。被災者をヘルプするボランティア活動も決して順調にはいっていなかったと思います。今考えれば、まけないぞうを作るための環境は、このときはまだ全く整ってはいなかったのでした。
そんな折、青木クリニックの患者さんの間では、俄にまけないぞうブームが到来していたのでした。
と、いうわけで、そこから実にいろいろな偶然が必然に変わり、どんどん善意の雪だるまが大きくなってゆき、仕舞には、まけないぞうの神さまが降りてきてしまったような患者さんまで続出して、みなさんが気持ちよくこの「まけないぞう雪崩」に巻き込まれて、気がついたら夏になっていた、そんな今日この頃なのでありました。