22日は昼前に、田中さっちゃんが、それを追って若林まみちゃんがクリニックに見えました。
去って行く友を見送る、という何とも切ない時間を、若林まみちゃんが救ってくれたのでした。
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わたしは95年1月20日の土曜日に、伊丹空港に降り立って震災の神戸に入りました。その時受けた衝撃は、きっと一生忘れないでしょう。
それから約10日間の神戸滞在中に起こったことが、即ち今のわたしの一番の原動力になっている……そう言っても過言ではないような10日間を過ごしました。
東京に帰って部屋に入ると、ファックスの紙が大蛇のように部屋を占拠していました。
「私たちの友人である中川努さんは、このたびの震災で、ご自宅にて亡くなられました。心よりご冥福をお祈りいたします。」
共通の友人からファックスのロール紙が無くなるほど何通も知らせが届いていたのでした。
中川努さんというのは、さっちゃんのフィアンセでした。関西学院大学の教授で、彼はわたしの患者さんでもありました。
阪神淡路大震災がわたしにとって、ほんとうに意味のある事象になったのは、実はそれからでした。
突然に伴侶を失った友人に、わたしは何の力にもなれなかった。
なぜなら、わたし自身も、長く癌を患っていた母を送ったばかりで、訳あって失業しかかってをり、死別ではなかったですが大切な人との別れがあり、因って自分の舟も大波にのまれそうな時期だったからです。
間もなくわたしは、かなり深刻なうつ状態になっていました。けれどもそれを押して失業を脱するためにいろいろな意味でかなり無理をして、銀座にクリニックを開業した
のが97年1月でした。クリニックを開業することで、うつから脱しようとしていました。今から考えると完全な逆療法でした。
この頃、さっちゃんも長くて暗い道を独りで歩いていたと思います。
そんなことで、お互いにあまり他の人の様子まで気にしている余裕はありませんでした。
けれども、きっとどこかで、お互いを気に掛け合っていたのだと思います。
やがて、少しづつ行く道に明かりが灯ってきて、四季や風景や味覚が戻ってきて、すると周囲の人々にも関心が戻ってきたのでした。
そういえば、さっちゃん、元気かな、、。
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わたしは深いうつから生還した人は、本当の意味でservivor だと思っています。自分がたった今の自分を生きてゆくことが、とても困難に感じる瞬間が人には確かに存在します。
それを乗り越えてきたさっちゃん。
そんなさっちゃんだからこそ、被災地で行う『雅楽の夕に、』の司会もしっかりとまとめてくれることが出来たのだと、思っています。
いま被災地では、長くて暗い道を歩んでおられる方々が大勢いらっしゃるに違いない。
でも、きっといつかは、何とかなる日が来る。頑張らなくてもいいから、何とか生きてさえいれば、きっといつかはそんな日が来る……そういうメッセージをしっかりと被災地に届けることができたのは、ほんとうにさっちゃんのお陰でした。
宮田さんの想いに宮司さんはじめ大勢の関係者が共感してくださって、あの日、大崎八幡宮さまに沢山のお客さまが見えてくださいました。
その一人ひとりが、さっちゃんの言葉にどんなに心が震わせられたことか。
さあて。もう日本を離れる日になりました。
次に会える日まで、元気でね。ほんとうに、ありがとうさん!&ご苦労さまでした。