【増島智子さん(被災地NGO
makenaizoneのみなさん、いつもお世話になっ
今日は昨日参加し
昨日、16日東京の代々木公園で行われた「反原発10万
15日の夜に被災地NGO
現場の代々木公園に着
時間が
厳しい暑さにも関わらず、小さな子ども連れの家族
これ以上、
小さな小さなひとり一人の想いが大きな力になりつつあり
「私たちは大きなことはできません、ただ小さな愛
また、九州では大雨
やらねけれ
これから
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【増島智子さん(被災地NGO
makenaizoneのみなさん、いつもお世話になっ
今日は昨日参加し
昨日、16日東京の代々木公園で行われた「反原発10万
15日の夜に被災地NGO
現場の代々木公園に着
時間が
厳しい暑さにも関わらず、小さな子ども連れの家族
これ以上、
小さな小さなひとり一人の想いが大きな力になりつつあり
「私たちは大きなことはできません、ただ小さな愛
また、九州では大雨
やらねけれ
これから
6月22日の22時からNHK震災ドキュメント2012『ふるさとは奪われた』を見た。
埼玉県の騎西高校に今でも残っている、双葉町の役場と避難所で暮らす町民の現状を追ったドキュメントだ。今も200人の町民が加須市の騎西高校の一次避難所に暮らしている。
ふるさとでの暮らしを奪われた双葉町の人々。
福島県内に残った町民と役場とともに騎西高校に移ってきた町民とが、幾重にも引き裂かれてゆく。県内に残った町民と騎西高校に移ってきた町民との間には深刻な対立がある。
番組では、90代から10代までの何人かの避難者にスポットを当てて追っていた。
事故から1年3ヶ月以上になった双葉町民の姿は、想像を超える苦悩があった。
幾重にも引き裂かれて、国にも見捨てられたと言う双葉町の人々。心も身体も壊れてゆく姿が鮮明に描かれていた。
確 かに双葉町といえば、何十年も帰れる見込みのない線量の場所だ。番組の趣旨は、双葉町の町民が引き裂かれてゆく原発立地自治体の状況を見せているのだが、 そうしてもちろん双葉町の問題はとてつもなく大きな問題なのだが、誤解を恐れずに言えば、被災者が引き裂かれているのは、何も双葉町に限ったことではない のではないか。
福島県の中通りにも原発で被災した場所は沢山あって、引き裂かれた被災者は沢山いるのではないか。会津にもまた。
あるいは、なにも福島県だけに限ったことではない。関東にも線量の高い場所が沢山ある。
避難した人、しなかった人、出来なかった人……千人いれば千通りの引き裂かれた人々がいて、千人居れば千人にそれぞれが抱えた事情がある。
原発事故という原因があって、被害を受けたという事実がある。しかし、一人一人受けた被害は、本当に千差万別なのではないか。
確かに根本的な原因は原発事故であっても、もはやそれは一次的な原因でしかなく、一年3ヶ月も経てば、二次的三次的な沢山の問題が積み重なって、被災者に襲いかかり苦しめているに違いない。
もちろん、そんな人々を法律的にバックアップしようと立ち上がっている人達も少なからず居る。
「裁判外紛争解決手続」ADRも立ち上がって仕事をしてもいる。
けれども、法律だけでは救済できない事柄も、急速に進んでいるのではないかと、私は暗澹たる気持ちになった。
例えば高齢の被災者や孤独を極める被災者たち。
これまでの災害復興の途上でも、いつのどんな災害でも、私たちはそういう被災者の存在を知りながら、全てに手をさしのべられない状況を見聞きしてきた。
17年前の阪神淡路大震災の被災者でさえ、未だに十分な救済がされてはいない実情を、私もよく知っている。けれども、今回の原発事故の災害は、状況の深刻さが格段に深い。
災害はいつどんな形で起こるのか分からない。
その中で原発事故に関しては、最悪の場合は一瞬にして、家族も住まいも仕事も全て奪われる可能性がある。災害復興を他の地域でしなければならないという、その他の災害とは一線を画した災害である。
法律や制度や、ましてや損害賠償金だけでは決して購うことができないほどの大きなダメージを受けるのが原発災害なのだ。だからこそ、二度と事故が起こらないようにしなければならない。
こうして暮らしや尊厳が奪われてしまった福島の人々が、誰よりも強く、原発再稼働反対の意思表示をしている事実を、私たちは決して忘れてはならないと思う。
そうして、原発事故の被災者の暮らしと尊厳について、もっともっと光を当てて考えてゆかなければならないと、改めて心に刻んだのだった。
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福島県郡山の横田有美さんからのFacebookでのコメントを以下に再録いたします。 (続きを読む... more...)
2012年6月23日 10:20
日比谷通りから総理官邸へ向かってゆくと、財務省前あたりからどんどん人が多くなってゆく。
19時20分ごろ、車が渋滞しはじめたので霞ヶ関の交差点で降りて、人の波に合流した。
先週はもっと官邸近くまでタクシーで行って「ここが最後尾」といプラカードに並んだのだが、22日はどこが最後尾なのか分からないほど、人が増えていた。
官邸周囲をぐるりと人が囲んでいるようだった。
わたしは東京の中央区で生まれ育ち、今でも住まい、仕事もしている。
東京で行われるデモの地点まで、行こうと思えば簡単に行ける所にわたしは居る。
けれどもこれまでの数少ないデモの経験では(例えば、イラク戦争反対のデモなど)、デモに行っても全然意義があるように思えなかった。
組織動員の人々がたくさん居て、色々な幟が立っている。幟の別々にシュプレヒコールをする。みんな不幸せそうな顔で、並んで歩く。
もう10年以上前になるだろうか。あるイベントに参加していたのだが、組織系の人々との活動では嫌な思い出だけが残った。
以来、どんなに近くでデモがあっても、わたしは足を運ぶ事はなかった。
けれども、今度は黙っていられなかった。
日本は今、地震の活動期のただ中にある。
2011年の311を体験したわたしたちは、今の状況をもっと大きな時間の軸で考えなくてはならないだろう。
3000年余りに及ぶ日本の歴史は、災害の歴史と言っても過言ではない。
大地震や火山噴火、追い打ちをかける台風、大水、引き続く感染症や飢餓との闘いだった。
地震には「活動期」と「非活動期」がある。日本はいつの時代も、地震の非活動期に栄え、活動期には混乱して来た。
そうして今まさに、私の目の前で、長い非活動期が終わり、活動期が始まったのだ。
これまで日本列島は、数えきれないぐらい災害に見舞われてきたし、現在のような地震活動期を何度も経験してきた。
けれどもこれまで、原発がなかったからこそ、今日という日に至っているのではないか。
そういう意味で、わたしたちは今、大きな歴史の岐路に立っているのだ。
残念ながら、福島原発の事故を無かったことにすることはできない。元の美しい福島に戻すこともできない。過去を変えることはできない。
けれども、わたしたちは未来を変えることができるのではないだろうか。
地震を止めることはできないけれども、原発を止めることはできるのではないだろうか。
「原発を止めると、経済が停滞する」
「原発技術が無くなると安全保障上の抑止力が無くなってしまう」
そういう人々に、何度でも言おう。日本という国が亡くなっては、元も子もないのだ。
福島原発の事故の収拾だけでも、これから大きな大きな負の課題を何世代も背負ってゆく運命にある。
そして次の原発事故があれば、その瞬間に、この国は全てを失ってしまうだろう。
国際的に抑止力のつもりが、日本という国の自滅の元凶となろうとしているのだ。
次の地震が起こるのを、わたしたちは決して止めることはできない。
けれども、日本という美しい国を子どもたちに引き継ぐために、原発だけは止めようではないか。
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まけないぞうと山本太郎 官邸前のツーショットかな
4月12日 22:22
先週の今頃、わたしは無力感について記した。
それが思いがけず、たくさんの方々の目に触れることとなった。
さらに思いがけず、たくさんの方々がわたしの言葉に頷いてくださったように思った。
それは、専門家でなくとも多くの方々がわたしと同じような無力感を、あの時から感じていたということだったのではないか。
たくさんの方々に背中を押してもらって、わたしはこの一週間、今まで自分で自分に蓋をしてきた無力感に、とことんつきあう事にした。わたしの無力感はいつから始まったのかを、お話ししようと思う。
2007年8月24日、神戸で原発震災についてのシンポジウムが行われた。わたしのたっての希望で地震学の石橋克彦氏(神戸大学名誉教授)とシンポジウムをご一緒させて頂いたのだった。
無事に終わって打ち上げの席でのことだ。
国の備えの甘さについて石橋先生と話をするうち、わたしは最悪のシナリオを作りたいので、ぜひ相談に乗って頂けないかと申し出た。すると石橋先生はわたしの目を見てこういわれた。
「青木さんは、東海地震が今のままで来れば、どのくらいでこの国が終わると思いますか」
「3日、ぐらいでしょうか」
「うん、僕は一晩だと思っている。だからせめて浜岡原発を止めなくてはならないんです」
わたしの無力感は、だから、キッカリこの時から始まったのだ。
それ以来、石橋克彦氏には大きな相談には乗って頂いていて、氏はわたしの心の師であり、同時にわたしの死神でもある。石橋氏は恐らく、311のあと、この国で最も大きな無力感を感じた人の一人だったに違いない。
わ たしはこの一週間、原子力工学の学者や建築家や漁業者や農業者や法律家や子どもを持つお母さんや小さな孫のいる方や役者や医療者など、いろいろな方々にわ たしの無力感について話をしてみた。みなさんも、怖くてなるべく考えないようにしてきたのだと言われたことが、強く印象に残っている。
ところで、本当の「知性」というのは何だろうか。本当の知性とは、想像力であるとわたしは思う。
と するならば、たった今福島で起こっていること——福島第一原発の事故によって、福島の方々が、どれぼど苦しみを抱えて暮らしておられるのか——について、 わたしたちはもっと真剣に向き合わなければと思うのだ。もっともっと真剣に想像をしてみることが必要なのではないだろうか。
そうして福島の苦しみを自分に引き寄せて考えたとき、わたしたちに残された結論は、他にないのではないだろうか。
福島の方々は、私たちよりもずっと、原発震災はもうまっぴらごめんだと思っているし、自分たちのことばかりか、この国の未来を真剣に考えようとしておられるように思うのだ。あれほどたいへんな暮らしの中で。
長くなってしまった。福島第一原発では4号機の燃料プールがだいへん危ない状況がが続いている。とはいえ、浜岡原発の3・4・5号機の燃料プールが、今この国では一番危険であることは、残念ながら疑いの余地が無い。
そのことをわたしに教えてくれたのも、福島の事故だった。
これからも、わたしはこの大きな無力感を抱きしめながら、福島とは何だっとのかを、考えてみようとおもっている。
—–
—– Facebookでのコメント、意見交換を以下に再録いたします。
2012年4月5日 20:11
先日のNHKの『MEGAQUAKE2』を観ていて、震災直後の日本地震学会において、地震学者たちが大きな戸惑いと無力感を曝け出した場面を見て、私は急に、昨年4月初旬の災害復興学会の研究会での出来事が鮮やかに思い出されたのだった。
関 西の災害復興学の名だたる研究者たちが、東日本大震災の報告をしながら皆、男泣きに泣いていたのだ。私も含めてだが、ずっと積み上げてきた学術的な知見も 経験も、この巨大な震災に対しては何もかも役に立たなかったという、どうしようもない無力感に押しつぶされそうになっていた研究者たち。それをひたすら実 感した昨春の研究会だった。
あれから一年。研究者はみな少しづつ立ち直って、巨大なる課題を残した震災に対し、また歩き始 めたところだ。東日本大震災というのは、あらゆる専門家から大きく学術的な自信を奪い取り、ひたすら無力感と向き合うことになってしまった震災だった。そ の大きくて重い事実を、番組は思い出させてくれたのだった。
今週中に大飯原発を再稼働する決定をしようとしている政治家は、日本の名だたる災害の研究者たちのこの大きな無力感を知っているのだろうか。
同じように地震学や原子力の研究者たちの、どうしようもない無力感を知っているのだろうか。
はっきり言おう。私たちの国は、大きな地震活動期の只中にあり、あらゆる専門家の専門知識を持ってさえ予見が不可能な状況になっている。
この時点ではもはや、次の大災害に対してどうリスクを減らして行くべきなのかを、日本中の頭脳を集めて考える段階にあるだろう。少なくとも、原発のリスクだけでも減らしておかなくては、この国には実質的に未来はない。
恐らく、災害にかかわっている全ての専門家はそう思っているはずである。専門家ならずとも、そう考えている人は多いことだろう。
もう一度言おう。一年前の桜が咲いていた関西学院大学での研究会では、どうしようもない無力感を抱きしめながら途方に暮れた研究者たちは、一日中、泣きながら研究会を過ごしたのだった。それが、本当の日本の姿なのだ。
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昨日の未明にfacebookで下記のような文を書きました。
すると色々な方々がシェアといって、どんどん伝播してくださって、ここまでで260件のシェア、実に500人以上の方々がいいね!を押してくださいました(4月7日午後現在)。
4月10日現在 411件のシェア 905人が「いいね」 4月12日現在 430件のシェア 930人が「いいね」
—– Facebookでのコメントの一部を以下に紹介いたします。 (続きを読む... more...)