女川での”まけないぞう”講習会、上手く行きましたというか、これまで増島智子と何カ所か同行して来て、正直、これほど下手くそなグループに出会うのは初めてでした。「よほど私の教え方がまずいんだなぁ??」と悩みながら、昼食をして二つ目に入ると、見違えるようにみなさん上手になっているんです。おもわず「みなさん、お昼も食べずに必死で練習してきたの?」といいました。
講師が一人前でないだけに、受講生の中から「こんな先生に任せていてはダメだ!」と孤軍奮闘される方がいて、もう三頭目からはその方が先生です。」「 ○○先生、ここどうすんのよ!」とか言って聞いていました。もうこれで、ここはその先生に任せていたら大丈夫です。
それにしても”まけないぞう”づくりは、ほんとに作り手さんの顔に似るのですね!もうびっくり。お一人あんパンのようなお顔をされた福よかな方がいらっしゃって、一つ目はもう”あんパンぞうさん”。もう吹き出しそうになったけど、グッとこらえて「凄い、可愛いのに出来上がりましたね!」とフォローしたものの、ご本人が笑い転げてもうみんな爆笑!!
早速先生になられた方は、なんと20メートルの津波に押し上げられ、山の中腹に育っていた杉の木に引っかかって九死に一生を得たのです。ところがその高い杉の木から降ろすのに、ロープをかけて作業しているときに落ちてしまい、背中を打撲、胸骨を骨折し、最近まで入院されていたとのことですが、これまた奇跡的に助かったのです。分厚いプラスチックのコルセットをはめられて、”まけないぞう”をつくってくれたのですが、集中すると背中にくるので、もう先生としてみなさんを見て回ってくれま
した。この女川町の高白浜(たかしらはま)というわずか20戸ほどの集落の方々ですが、ここ「高白浜」は、一見の納屋だけが残ったのですが、ほんとに何もありません。三陸海岸の典型的なリアス式海岸集落でしょうか、この小さな集落に20メートルほどの津波が襲ったようです。
女川に行く直前に、田中幸子さんの教え子の方が女川にご親戚がおられ、でも三人とも流されたということを知りました。シンガポール在住だそうで、”まけないぞう”が一頭シンガポールに行ったと聞いています。女川での”まけないぞう”づくりが、他の集落にも伝わり、やがてその方のご親戚の方々にも目に触れることがあればいいなぁと思いながら、神戸に帰って来ました。
田中幸子さん、今回”諏訪坊さん”のところへは立ち寄ることができませんでした。彼は、きっとタオル集めに頑張ってくださっていると思います。
ところで小野澤治子さん、村井です。ごあいさつは初めてかと思いますが、「雅楽の夕に、」のときにもいろいろフランスからメッセージをくださいましてありがとうございます。田中幸子さんがヨーロッパ統括だとすると、小野澤さんは「フランス支部長」でしょうか?今後ともよろしくお願いします。
アメリカは「まけないゾーン広報統括部長若林まみさん」、そして映画監督でもあられる我謝京子様さん頑張ってくださっており、しかも我謝さんの「3・11 ここに生きる」も完成されたようで10月の映画祭が楽しみです。どんどんアメリカでも広がるのでしょうね!
我謝京子さん、「3・11 ここに生きる」のDVD受け取りました。ありがとうございます。「ここに生きる」というタイトルがいいですね!ほんとに被災者お一人おひとり、「ここに生きる」ですね!
阪神淡路大震災の時、長田区の菅原商店街のところでお会いしていたようですが、あの辺りもウロウロしておりましたので、そうかも知れません。高校と当時の仕事場の関係で長田には縁が深く、優先的に長田区の被災者を支援しておりました。私は、15年ほど長田区を中心に盛んだった「ケミカルシューズ業界」で働いていました。震災の3年前から、工房を持って靴づくりをしていた関係で、この震災にあった長田区の靴業界が、世界一のオーダー靴のまちになればいいなぁと思っていました。
しかし、願いは叶わず、復興の槌音とともに様相を変えてしまいました。
いっときは、長田を「アジアタウンにしよう!」と盛り上がっていたのですが、神戸市が横やりを入れたので実現しませんでした。
我謝さん、きっとこの映画を通して、そしてまけないぞうを買って、世界中のたくさんの人が「ここに生きる」と共感されると思います。「雅楽の夕に、」で見事に”解け合っていましたので。
私も一日くらいは参加できると思います。10月の映画祭でお会いできるのを楽しみにしています。